春 霞 頭上で薄紅色の花が揺れる度、螺旋を描きながら花弁が舞い落ちてくる。 つい三日前にはまだまだ咲かぬと堅く噤んでいた蕾も現金なもので、暖かな光で太陽に撫でられると一斉に機嫌よく綻ばせた。今や八部咲きという所だろうか。 花弁を運ぶ風は緩やかに流れている。そこには冬には無かった生き物の気配や香気が確かに含まれている。色を付けるとするならこれも又、薄紅色だ。 長く伸ばした前髪が時折、木漏れ日に当たって透けて見えた。 傷むのも構わずすっかり抜いてしまった色は、実は密かに彼のお気に入りだった事を思い出す。 とはいえ実際に言われた訳ではなく、しかもたったの二日かそこらの事ではあったのだが、それでも触れる指先の仕草や瞳の色を見れば解ろうというものだ。 あの時眠りに落ちる彼の指が尚、自分の髪を絡めて離さなかったのも。 自然に口元が緩んだ。 そして今、この人はどんな夢を見ているのだろうか。 膝の上に広がる艶やかな黒髪に手を伸ばす。さらりとした感触は手によく馴染む。 調度前髪に風に煽られ花弁が舞い落ちてきた。 それを気まぐれに口に含んでみた。薄い表面に舌を滑らせる。 幼い頃ビー玉を舐めてみた時の心境というのはこんなものだったろうか。 そんな事をしたという記憶がある訳でもないのだが、ふとそう思った。 何だか擽ったい。 「ん〜、やっぱまずい」 指でつまんで捨てる。 花弁は後から後から舞い落ちてくる。傍らの黒髪を手慰みに梳きときながら見上げてみれば、普段情緒だの何だのとは縁のない自分でも思わず感嘆の息が漏れる程の光景だった。 彼の人に触れる方とは反対の手を持ち上げると、引き寄せられるように 空に踊る薄紅がすべりこんできた。先程のものに比べると赤みが少し強い。 暫く掌の上で遊ばせ、おもむろに又口へ運ぶ。草花独特の香りが広がり鼻へと抜け、歯を立てれば見かけとは違い仄か苦みを持っていた。 半分だけ含んでいた花弁を今度は捨てなかった。仰ぐ視線は薄紅で染まっている。苦味と、そして微かに甘さを感じた気がした。喉を滑り落ちていく。 「……まず」 「解っていて何を言う」 突然の言葉に驚き見れば、いつの間に目が覚めたのだろう黒檀の瞳が薄く開かれていた。 解っていて、というからには二度とも見ていたのだろう。ただこの人の事だから、目に映った事柄をただぼんやりと眺めていただけに違いない。寝ぼけている―――今の状態でいる事が何よりの証だ。 「なんや、いつの間に目ぇ覚めたんですか? ……起きたんやったらもっとはよ言ぅてくれたら良かったんに。」 髪を撫でる。 嘘だ。目など、覚めなければいいとどこかで願っていた。 指の間を黒糸がすり抜ける。堅い髪質なのにどうしてこうもすべらかなのかといつも思っていた。 嘘だ。目覚めて欲しいと思った。その瞳が、又こちらを向けばいいと思った。 ついた花弁を取り除く。それはこの人の髪には良く映えまるで飾るかのようだったが、何だか気にいらなかった。 そうして結局、どちらも嘘ではない。 まだ焦点の定まらぬ瞳は、けれど自分を捕らえている。そしてそれ以外はまだどこか夢うつらに浮かんでいる。 風に揺れる前髪が瞳にかかりそうになるのを厭い掻き揚げてやった。普段見れない額に、身をかがめ軽く唇を押し当てる。鼻梁に触れる髪がこそばゆい。 もうすぐ、もうすぐ彼は現実に戻ってしまうだろう。夢から覚めた時、もう自分はここにはいられない。だからもう少し、もう少しだけ。 「ジョーカー…」 自分を呼ぶ声に目を細め、頬を包みこみ再び唇を合わせた。 * 「……くれい。紅麗?どうしたの?」 幼い子供の声。急速に水面に浮び上るように意識が呼び起こされる。 覗きこむような大きな目。小さなその頭の向こう春霞にけぶる空に、花嵐ははらはらと流れる。 「……かおる?」 どうやら眠っていたらしい。霞がかったようにはっきりとしない頭を軽く抑えた。それでいてどこか酷く冴えているような心持がするのだから寝起きというのは不思議だ。 ふと目を擦ると手に水滴が滑った。 それが何か理解する前に、頬の輪郭を辿り幾筋も幾筋も流れ落ちる。 泣いているのだ、と判った時には止まらなくなっていた。 「わるい夢でも、見た?」 どうしたらよいのか解らないといった貌で、おろおろと薫が言った。 そのうろたえように、そういえば以前自分も泣くこの子を前に、同じ様に狼狽した事を思い出した。 あの時どうして薫は泣いていたのだったか。 ぎゅう、と抱きついてくる。それが慰めているのだと、何を言えばいいのか解らないから、せめて伝わればいいという精一杯の気持ちが嬉しかった。 少しずつ霧が晴れてゆく。咲き誇る木々、薄紅、一片のそれ、木漏れ日に透ける金糸。 撫でられる髪、触れた唇、微笑む――― 目を閉じると、また一つ頬を流れた。 「違う。……いい夢、だったんだ」 薫は、そう、と言って腕に力を込めた。 彼の髪が纏う薄紅色の花弁。 |